喪失と再生の火を灯す
新井健と谷川果菜絵によるユニット・MES。「祈り/戯れ/被虐的な、行為 P-L/R-A/E-Y」では、蝋燭と身体を交差させるパフォーマンス、レーザー刻印による彫刻、映像作品などが展示された。レーザーや蝋燭による熱と光、そして言葉と身体から生まれる表現は、メタファーのように時とともに形を変える。本展が提示する戦争という巨大な暴力への「祈り」あるいは「戯れ」もまた、ひとつではなく、複数の形をしている。戦争から遊戯まで、MESがその身に宿す生成変化のフローを読み解いていく。
Text: Eisaku Sakai
All Photo: Naoki Takehisa
── 今回の展覧会までの経緯を教えてください。やはり蝋燭を用いたパフォーマンスが起点になっているのでしょうか?
谷川果菜絵(以下、谷川):今回の展覧会でいえば、映像《CEASEFIRE》が最初です。素材としてのワックスは、もともと新井がレーザーを使う動機として2015年くらいから取り組んでいます。
新井健(以下、新井):僕はもともと彫刻をやっていて、当時は蝋燭をレーザーで溶かした立体をつくりたいと思っていました。それからレーザーの研究をはじめて、ひょんなことからクラブでVJをしてほしいと依頼があり、それからはクラブシーンでもレーザーをやることになりました。物質的なものよりも、パーティーとか、ライブでパフォーマンスをやることの方に当時は興味がありました。そしてまたマテリアルの方に戻ってきたタイミングが、最近という感じです。
谷川:CON_からオファーをいただいた時点(2024年2月)で、ワックスのマテリアルをメインとすることは決めていました。映像は昨年の11月に撮りました。これは、2023年10月7日以降のイスラエルによるガザ侵攻がきっかけとなっています。パレスチナの領土問題自体は70年以上前から続くものですが、今回は壁の中に閉じ込められた数百万の人々が、ほぼなすすべもなく砲火を浴びている虐殺状態。それ以前にロシアのウクライナ侵攻から戦争や占領への意識が変容してきた時期でもあったので、作品になるかどうかはわからないけれど、何か形にしたくて撮った映像でした。
── 2022年にはロシアによるウクライナ侵攻、2023年にはイスラエルによるパレスチナ侵攻と続いてきました。
谷川:これまでの過去の戦争と何が違うかといえば、SNSでリアルタイムに中継され続けていること、それがフェイク情報も含めて個人単位で飛び交っていることでした。それに対して「#ceasefire」というプロテストのハッシュタグが出回っていて。「Cease」は「止める」という意味で、いままで「停戦」という事象は目にしていましたが、それを英単語として認識したのは今回がはじめてだった。この言葉を蝋燭にして、火を点けたり、火が消えたりすることで、何かあらわせるものがあるかもしれないという話になって、その場(自宅のベランダ)ですぐ映像を撮りました。インターネットで発表することは少ないのですが、ハッシュタグというSNS上の現象にかかわるものだったので、この作品もSNSにポストしました。
── 「CEASE」を象った蝋燭に火を灯しながら行うパフォーマンス《WAX P-L/R-A/E-Y》は、もともとメキシコシティでのアートフェア「QiPO 2024」で発表されたものでした。
谷川:今年の2月にメキシコシティでの展覧会『URBANGAZE』とアートフェアへの参加が決まり、パフォーマンス部門にもアプライした形でした。過去作を再構成することも頭にあったのですが、自分たちの機材をすべて持っていけない状況で何ができるかを考えたときに、「CEASEFIRE」の映像をパフォーマンスにするのがいいと思いついて、計画を立てていきました。会場側からも火を使っていいと「寛容な」返答をもらえたので実現できました。メキシコは社会主義国で革命運動の影響がアートと連動していて、日本とは異なる状況があります。だからもし東京だけで活動していたら、このパフォーマンス自体がなかったかもしれない。
── メキシコでは作品の文脈を知らない人たちがたくさんいる状況で、だからこそ純粋にパフォーマンスからはじめられる部分もあったのでしょうか。
新井:メタ的に自分たちを捉えながらやらずにできたのはありますね。邪念みたいなものはなく、すごくフラットにできた。作品が生まれるにあたって恵まれた環境だったと思います。
谷川:会場の反応はすごくダイレクトでしたね。吹き抜けで、屋台やDJのパフォーマンスなどいろいろなものが混在している空間で、アーティストたちが毎日つねに何かしているし、その場にいるアーティストたちが撮ってくれたり、お互いのバックグラウンドを話したり。それぞれの政治的な問題についてもフラットに話せるような環境でした。そもそも東アジアや日本から参加している人がほとんどいなかったので、珍しかったかもしれません。
[流動する彫刻と空間]
── パフォーマンスに関しては、どういった考え方で制作しているのでしょうか? 今回のタイトルにもある「被虐的」な要素が、パフォーマンスにはあると思いました。
新井:身体にレーザーを当てることで図像が浮かび上がってくるという映像を、REBORN ART FESTIVAL 2021のインスタレーション《サイ/SA-I》で発表しました。もともと映像作品として作ったのですが、この行為自体が見せられたら面白いと思ってパフォーマンスに持っていくとか、そういう感じでできることが多いですね。今回の《CEASEFIRE》も同じです。
谷川:《DISTANCE OF RESISTANCE/抵抗の距離》という国会議事堂などにレーザー照射したシリーズでも、行為中が一番すごい景色が広がっているけど、作品として見せるときは小さなモニターやプリントへスケールダウンせざるを得ない。そんなふうに、その行為自体を観客に見せられたらいいと思うことが増えて、パフォーマンスに展開している部分はありますね。
新井:制作や展示の過程で副次的に出てきてしまうものを面白いと思ってしまう節があって、その順序を変えるとか、そういう自分たちの楽しみを出す方に最近は向かっています。それは、パーティーでのハプニングのような面白さでもあると思います。
── そういった考え方は、MESが提示してきた「ライブ彫刻」というコンセプトにも繋がっていきますか?
新井:今回は、パフォーマンスがあって同時にレーザーの彫刻作品も存在している空間としてつくっていますね。
谷川:レーザーを当てられた蝋燭が溶けていくことはもちろん「ライブ彫刻」だし、パフォーマンスのなかで自分たちの身体に向かって蝋燭が溶け落ちていくことも、そしてそれが同時に存在することで空間が変わっていくこともコンセプトの一部になっています。軍事的な要件から発達してきたレーザーがあって、火を使った蝋燭があって、それぞれ別のタイムラインで形を変えていく。自分たちにとってのレーザーは、身体拡張的な意味合いもあるし、クラブで踊るためのものでもあるので、そういった異なるタイムラインが同じ空間に混ざっていくことが面白いと思うんです。
新井:演劇では、うしろに絵や物が置いてある。そういう舞台美術を考えてみたときに、つねに余白があるというか、それ自体が完結していないものが存在していると、想像が膨らむなと思っていて。今回の彫刻は流動的に変化していくもので、パフォーマンスとリンクするだろうと考えていました。
── 彫刻はある形を掘り出して見つけるものだと思うのですが、MESはある形が生成されるものとして彫刻を捉えていますよね。それは、形がひとつだけではないということでもあって、その変化のフローを作るような取り組みなのかなと思いました。
[壁が溶けるとしたら]
── 展示空間にはレーザーによって言葉が刻印される作品があります。そこでは、自己と他者の関係性や身体のイメージが示されているように思いました。作品タイトルの言葉「あなたと私の境界線が溶けていく」、「皮膚と皮膚が(熱く)こすれて」にあるような「溶ける」「こすれる」から生まれる人間像やコミュニケーションのあり方とは、どのようなものを想像していますか?
谷川:これは、パフォーマンスの時に自分たちで作った言葉です。「CEASE」の文字は、溶けたら読めなくなってしまう。こちらは溶けることで読めるようになっていく。表面が溶けることでうしろのレイヤーが見えるような作りになっている作品は、何かが暴かれ、あらわれる、そういうイメージがずっとあって。身体の接触には、セクシャルなイメージもあると思うのですが、ケア的だったりもしくは、無機質で概念的な国境だったりといった接触のイメージもあります。新井が昔、人間よりも壁のほうにシンパシーを感じると言っていたことがあって(笑)。つまり、「あなた」と「私」にはいろいろなものを代入できると思うんです。壁は、親密でプライベートな空間もあらわすけれど、防潮堤や分離壁――例えばメキシコとアメリカの国境、DMZ(韓国と北朝鮮などの非武装地帯)などいろいろなものを分断するものでもあります。それが溶けたらどうなるのだろうか、というすごく素朴な期待がある。ベルリンの壁が崩壊したあたりで私たちは生まれたのですが、どこか壁が壊れることへの期待があるような気がします。「溶ける」とか「擦れる」は、皮膚感覚に近いものである一方で、作品としては堅いものが溶けるというイメージがありますね。
新井:壁にシンパシーを感じたことはすごく感覚的なことだったのですが、今思い返せば、主体性のない物質にたいして主体性を持たされている状態が、強烈なマゾヒズムのようにも感じられて、その部分に共感していたんじゃないかと思います。人間が作ったもの、例えばガソリンは生物の死骸の蓄積から生成して大きなエネルギーを生む。そういうところに、カタルシスを感じますね。そこから軍事兵器や原子力発電のような自分が想像しきれない領域に繋がっていく。そこに興味があるんです。
谷川:過去作、《meltdown pt.2 “cakeshop”》では、原子力をテーマにしていました。放射能汚染された土をコンクリートで覆うじゃないですか。そういうものを剥がしたらそこにあった歴史がドロっと出てくるような、そういうイメージがありましたね。
── 蝋燭も、もとを辿れば石油由来のものですよね。
谷川:本当にそうです! 石油から生成されるパラフィンなので、エネルギーにかんする話は考えずにはいられない。
── 蝋燭ってやっぱり皮膚に垂らすと熱いものですか?
新井:熱いですね。SM用の蝋燭は48℃から49℃あたりなのですが、パフォーマンスで使っているのは10℃くらい高いもの。そうなると低温火傷になってしまうこともあります。
谷川:そもそもこの蝋燭は、ひとつひとつが手作りで。言うと、驚かれることがあるんですけど。
新井:鍋で溶かして大きな器に流し込んでから、それを彫刻刀や半田ごてで形を作っています。自分の身体の各部位や指先に乗る大きさに合わせて、いろいろなバリエーションがある。ちょうどいい型があればいいのですが、なかったので作っている感じです。
──なぜ蝋燭は黒だったのでしょうか? 自分は黒い蝋燭が溶けて身体に流れていく様子を見て、爆撃された身体や風景を想像しました。一方で、流動体のような造形的なかっこよさも感じる。そんな両義的な印象を与える色だと思いました。
新井:黒にしたのは、パフォーマンスをするうえで、燃えたときに何か輪郭が出てきてほしいから。例えば、映像のなかでは背景の夜空と黒い蝋燭が火によって輪郭が消えたり浮き出たりするように意図していました。地球に血があるとしたら、重油のような黒い色をしているかもしれないし、そんな派生についても考えています。
そういえば、メキシコで蝋燭を作る素材が足りなくなって手配する必要がありました。メキシコは蝋燭が生活と密接に紐づいていて、蝋燭のお店がたくさんあるんですよ。買えるなら買おうと思ったのですが、探してみるとホーリーな白とか赤とか黄ばかりで、黒はなかった。
谷川:メキシコはカトリックということもあり。
新井:聞いてみると市場にあるということで、闇市みたいな場所をどんどん進んでいくと、黒魔術用の蝋燭ショップがあって(笑)。そこで買ったものを溶かして作ったことがありました。
[火の抗議]
──「Pyrosexual」という言葉が作品中に出てきます(《IMMOLATION(Collage of Pyrosexual)》)。これはNigel Clarkのテクスト「Queer Fire: Ecology, Combustion and Pyrosexual Desire」から取られたものでした。今回の作品は、クィア的な主体や身体のあり方のイメージもあるのでしょうか?
谷川:「Pyro」はギリシャ語で「火」の意で、直訳するなら「火性愛」です。友人がこのテキストをシェアしてくれたのですが、内容は火を媒介として、現在の資本主義的で人間あるいは異性愛中心的な人間の生態をクィアリングするというものでした。そもそも人間が火をコントロールしてきたことが、現在の文明の根本にはある。そして火にまつわる衝動とそれらの「危険視」というのは、解放にも抑圧にも繋がっていくものということで、それが今回のパフォーマンスの性質にもなっています。火に従って自分たちの動きを見出してみたり。人間の身体って可燃性なんですよね。自分自身が燃える素材であるということや火にたいする衝動についても考えています。例えば、アメリカのイスラエル大使館前で自らの身体に火をつけたAaron Bushnellは、ストリーミングしながら抗議活動をした。それを見た警備員たちは必死で火を消そうとしたわけです。それは、権力構造が火をコントロールしようとしたとも言える。支配と抵抗の論理のなかで、火というものはものすごく強い。火の抗議というものは連綿と人の記憶に残っていきますよね。
他方、《ICARUS_走光》で刻印されるイカロスのテクストは、三島由紀夫の『太陽と鉄』から取っているのですが、彼が何から影響を受けて自害したかというと、右翼の青年が工場で焼身自殺をしたこともひとつにあった。その行為を芸術では越えられないのではないか、という言葉を三島は残していた。それは抗議の形ではあるけれど、同時に時代にたいする絶望が反映されたときに、選択される方法なのではないかと思ったり。
── 「#ceasefire」は、SNS上で流通しやすい形式(=ハッシュタグ)でした。それは共有しやすい分、現実にどういった変化をもたらすのか、言葉の力がどれほどあるのか、個人的にはよくわからなくなるようなものでした。最近はAI生成画像でメッセージをInstagramのストーリーズでシェアするアクションもありましたよね。一方でMESのパフォーマンスは、その言葉を文字通り溶かして身体に刻むという変化がある。もちろん現地とはまったく別の事象ではありますが、その時間をともに過ごすことの意義は大きいと思いました。
谷川:自分たちが「燭台」になることは、日常的ではないものの、蝋燭に火を灯すことは、普遍的な弔いの形でもあると思っていて、それは停戦してほしいという願いでもあるけれど、たった一人の喪失感を埋めたり、現在の絶望感を癒したりするものでもあります。今回は、自分たちの底にあるような絶望にもアプローチできたらいいと考えていました。「Pyrosexual」のなかでも、火は喪失に見えるかもしれないが火は再生も担っているという話もあって。つまり、「CEASE」が火によって溶けていくことが、終わりなのかはじまりなのかわからないような、そんな両義性も火にはありますよね。
新井:映像を撮った当時の感覚としては、溶けていっているなかで身動きが取れない、しかし、動いたら火が消えてしまうのでそれまで静止している、そこに焦りのようなものを感じていました。見えないところでは、日々人が亡くなっている。自分の想像力の及ばない規模で消滅していくものを、自宅のベランダから想像するという行為が、起点にあったと思います。
[祈りのマゾヒズム、遊びのサディズム]
── 展覧会タイトルには、祈り(=Pray)がありつつ、遊戯(=Play)という意味も重ねられています。火を指先に留めることは、手遊び的なものでもあり、被虐的でマゾヒズム的な享楽も含まれていると思いました。
新井:大きなサディズムが爆発したときに戦争へと発展する。それを映像化した戦争映画や演劇もありますよね。サディズムとマゾヒズムは、どうしても人間から切り離せないものでもあると思います。
谷川:戦争とSMって相性が良くて、制服ひとつ取っても統率された美学があるじゃないですか。いろいろなミュージックビデオを見ていても、制服だったり銃だったりが出てきます。ある種のシミュレーションやイミテーションをすることで、自分たちの攻撃性を戯画化するようなものです。そういう遊びみたいなところで生まれるコミュニケーションもあると思うんですよね。危険なことでもあるけれど、関係を深めるものにもなります。先ほどおっしゃったように、これが現実を変えるかどうかはわからない。だから、戯れでしかないということでもある。そういうシミュレーションが繰り返される社会のなかでメタファーを通じて想像すること、そこで何かをやってみることが今回のタイトルに繋がっています。そしてこの展覧会では、暴力についてだけ考えるのではなく、いろいろ思想を巡りたいと思って、三島由紀夫の『イカロス』にも触れています。
新井:例えば、バタイユにシンパシーを感じていた三島由紀夫が、イカロスというテーマで光を捉えたときに、彼にとっては光が天皇だった。でも、天皇が光ってなんだろう、みたいな。それからパフォーマンスに向かっていくような往復もありました。
谷川:《ICARUS_走光》は、三島のテキストでもありますが、そもそも蝋燭といえばイカロス(の翼)というイメージもあって、以前から取り組みたいという気持ちが形になったものでした。というのも、現代アートはなぜこんなにギリシャ神話を取り上げるんだという疑問もあって。西洋の、アートの光源みたいになっていますよね。イカロスは、父が作った翼で、父から太陽にも海にも近づくなといわれて、蝋燭の羽での飛行に失敗し墜落する。そこには主体性がまったくないと思ったんですよ。だからある意味で、従属の象徴でもある。それは戦闘機から放たれる爆弾のようにも想像できて、イカロスは傲慢さに対する道徳的な教訓として見られるけれど、実は存在としてものすごく受け身で、無機質なもののように思えました。そこから、三島を考えると、死とイコールでさえある戦闘機がもたらす「超人間的な」風景に、純粋な光源としての、概念としての天皇というものを重ねていったのではないかと。
── レーザーや火の熱の側面を話してきましたが、シンプルに光でもありますよね。MESにとって光とはどのような存在ですか?
谷川:そもそも光は、世界を認識するために必要なものですよね。光の反射によって見えているわけで。でも私たちは、光源の方に興味がある気がします。そういえば、レーザーってずっと見られるね、という感想がこれまでで一番多い。
新井:明滅の周波数がネオンライトと同じくらいなので、ノスタルジーな気分になるのかもしれません。
谷川:その光源を動かしていくこと。レーザーで照射して個体が液化したとき、そこからの反射が天井に出るんですね。新井が副次的なことが面白いと話していましたが、みんなが注目する部分とは別のところで起きていることが、面白いと思っています。
Title : 祈り/戯れ/被虐的な、行為 P-L/R-A/E-Y
Artist : MES
Term : 2024.07.12(FRI) - 08.04(SUN)
Opening reception 07.12(FRI) 18:00-21:00
at CON_