赤い部屋が|好きですか?

赤い部屋が|好きですか?

GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE、山本和真、ArtKingによる「極薄inframince」から2年振りの続編となる「赫赫inframince」。画像収集によって鍛え上げられた「薄っぺらい美学」を空間に展開する本展は、画像と物質、仮想と現実の間にある極薄の虚空を切り開いて見せる。この空間には、一体何が“ある”のか。真っ赤に染められた部屋に充満する時代のムード、有象無象の物たちが辿ってきた経路について話を聞いた。

Text: Eisaku Sakai


── 前回のインタビューでは、「薄っぺらい美学」という形で「極薄」のコンセプトのようなものが示されていました。前回と同じメンバーであり、続編となる「赫赫」もそれは踏襲しているのでしょうか?

GILLOCHINDOX☆GILLOCHINDAE(以下、GCD):してます。前回は、全員はじめましての状態で会って、そこから展示やビジュアルの雰囲気をお互いに画像で共有して、チューニングを合わせていく作業をしてました。タイトルの決め方もちょっと近いというか、単語の文字感的にしっくりくるかどうか。なので、言葉からコンセプトをつくるというよりは、視覚的な言語から展示をつくっていくということが、“薄っぺらい美学”にはある。中心に何か思想があるわけでもない。

── コンセプトというよりは、方法とかアティテュードに近いんですかね。何か中心になる画像があって、そこから展覧会が組み立てられていく感じですか。どういう画像がやりとりされている?

GCD:こういう感じです(メッセージグループで交わされた画像一覧の画面を見せる)。

── わかるような、わからないような……。このやりとりで三人の共通項とか合意できる点を探っているんですか?

山本和真(以下、山本):共通点……。

GCD:合意とかは……、ない(笑)。

ArtKing(以下、AK):今回の赤は、Backroomsの空間にマクドナルドが出店している有名なミーム画像があって、これはいいんじゃないか、みたいな話はありました。ドナルドの髪色とか。じゃあ、全部赤いものにしたらいいって。みんな普段から画像を集めていて、いっぱい手札があるんですよね。それで展示が終わるたびに、最近いいと思っているものを出し合って、そうすると大体重なる部分がある。

GCD:会うと「これよくね?」ってインスタの投稿の話か、画像の話をしてますね。

AK:言葉は最初に決まっていなくて、決めになる画像もとくになかった。でも、明らかに同じオーラを纏った画像群はあった。それは言葉にはできないけど、完全に三人は理解できるし、そこから考えていけるというか。

山本:「赫赫」も漢字のかっこよさで選んでるし。

AK:絵文字っぽい感じで選んでる。

── 意味から入ってしまうと、三人が話していることや展覧会がやろうとしていることは、捉えづらい気がします。

AK:もちろん意味がまったくないわけではないんだけど……。

山本:意味より強く入ってくる情報がある。

AK:それが一番大事。

── マクドナルドの赤に反応したのはちょっと面白いと思いました。グローバルに展開するブランドのビジュアル戦略的なものの成果でもあるし、それがBackrooms的な(仮想)空間に配置されたときの面白さに反応しているようにも思えます。ロゴってそれ自体に意味はあまりなくて、色で認知されるとか、そういうことで流通していますよね。

GCD:ロゴって意味的にはあとからなんとでもいえるし、そういう気持ちは現代美術への懐疑にも繋がっている気がします。

[実体のない赤]

── 今回は作品も空間も真っ赤で、血や髑髏、悪魔崇拝的なモチーフが並んでいて、ムード的にはダークな方に寄っていますよね。

GCD:なんとなくなぜ赤なのかを考えてみたんですけど、今って戦争の時代じゃないですか。ウクライナ侵攻やガザ侵攻があって。しかもTwitterがXに変わってから、ただただグロい動画が流れてくるようになった。中国で斧を使って人が殺されている動画とか。それによる血や赤から、影響を受けているのかもしれない。でっちあげるなら、そういうこともいえる。

AK:それはでっちあげでもないと思っていて。みんなが戦争とかいろいろな理不尽にたいする怒りをどうしようもなく持っていて、それを直接的なグロい動画だけではなく、何かしらの方法でアウトプットしているわけじゃないですか。そういった魂が吹き込まれた画像は増えていると感じる。だから無意識的に、赤くて怖い画像が自分のカメラロールにも増えていると思う。

山本:おれの感覚的には2010年代は、まだ未来が明るい感覚があった。音楽はEDMとかPitbullとかが流行ってたし。今は呪術的なものや陰謀論的なものが流行っていて、未来にたいする漠然とした不安がある。今が戦争の時代だとしたら、本当は第二次世界大戦の方がもっと規模的には大きかったから、そういう濃く分厚い赤ではなくて、さらっとした薄い赤だなと思う。それこそ画像的な実体のない赤。

AK:自分自身は画像を食べて画像を吐き出す化け物みたいになっちゃっていて(笑)。僕が戦争にたいして憤りを覚えているかどうかとは関係なく、食べるものが怒りに満ちているから、出すものも必然的にそうならざるを得ない。

山本:確実に怒りがあるもんね。

AK:でもそれは、僕の怒りだけではない。

[画像鑑賞には最高の額縁を]

── 作品を見る限り、今話したような戦争や暴力は直接的にあらわれていない。画像群やそのムードを捉えたうえで、そこからどういうアウトプットがなされるんですか? 例えばArtKingの大きなプリント三作品《untitled》は、画像群からこの一枚を選んでプリントしようとなるわけで。

AK:自分の経緯を遡って話してみます。Twitterは中学に入る前くらいからやっていて、そのときからちょっとでも気になったものを保存するために、スクリーンショットをし続けています。2010年代に入ってからでいえば、VaperwaveとかGosha Rubchinskiyを着た自撮りとか、あのちゃんに憧れている女の子の手元の写真とか。そういうあきらかにVaperwaveの湿り気のようなものを纏った画像群を、もっとも美しいと思っている節がある。それが今のOpiumに繋がっていると自分は思うし。Y2KOakleyserial experiments lainも同じ湿り気。そういう最高の風景をスクショしてきた。それでスクショが溜まっていったカメラロールを見返したときに、ただ撮った順に並んでいるのを見るだけでいいのかと思いはじめて。本来の画像は、その時間にあったものだし、場所性とかまわりの情報が取り払われた標本として集まってしまっている気がした。あとは画像鑑賞をするうえで、本当にかっこいいiPhoneケースに入っているかどうか、ディスプレイが割れているか割れていないか、ということも重要だと思う。

そういう問題を抱えながら大学で制作したのがVR作品でした。それは画像を展示するための空間や額縁をつくるためで、そういう「スクショ絵画」をいかに完璧に鑑賞し尽くすかを考えてました。そのあたりの時期に見つけたのが、Twitterの「Archillect」っていう画像botみたいなアカウント。あのかっこいいアイコンといい感じのユーザーネームがあって、一枚の画像ではなく画像群として見せるのは、新しい制服を与えられたような何かしらの意味づけがなされていた。それから画像の収集が加速したんですけど、そこにも限界があった。というのも、他人の画面のガラスはいじれないじゃないですか。環境が最高じゃないと、この画像をちゃんと鑑賞したことにはならないぞ、と。

GCD:新しいタイプの老害みたい。

AK:それなら最高の額縁を自分でつくるしかないと思って辿りついたのが、斧だった。それは、画像を鑑賞するための究極のiPhoneであり額縁みたいな。

山本:軽いものをどうやって作品化するかという考えはすごくよくわかる。その軽い感じをそのまま抱きしめて、軽さゆえの強さは出ていると思う。

AK:「#ファインダー越しの私の世界」じゃないけど、自分のフィルターを通した世界を見てほしいという気持ちは一切なくて、ただ食べたものを排出しているだけというか。

山本:なんで斧がいいと思ったの?

AK:iPhoneのガラスのキラキラした感じとか、石板的な重さとか、そういうものを誇張した結果、斧になった。自分の趣味的なものは、もちろんどうしても入ってきてしまっていて、武器とか尖っているものがかっこいいんじゃないかという気持ちが混ざり合ってこうなりました。

[薄っぺらく分厚い]

── 他の二人は、画像との距離感はどうですか?

GCD:「極薄」の芯にいるのは、ArtKing。おれと和真は、年齢が二個上ってこともあるかもしれないけど、なんか画像から変換したくなってしまう。本当はしたくないんだけど。「BOLMETEUS」で展示した《KARMAN LINE》とかは、ネットで拾ったミームの文字を使ったりしているから、画像を切って貼ってコラージュみたいに使っている節はある。あの血の作品(《チ》)は、本当に謎ですね。関係ない話にはなるけど、ライブと演劇の間のようなものをやりたいと思っていて、そのときにセットとして使えるものを作っているんじゃないかという気もする。例えば、パフォーマンスで乗る台座とか。そのうちのひとつで血溜まりが壁にあって、その前で人間がライブしてたらかっこいいかな、と。これは「」から続いているアイデアですね。まだ自分でもあんまりわかっていない部分なので、血溜まりをつくったあとに、これが戦争をあらわしているとか思われたら嫌だなとは思ったんですけど。

AK:血が何から流れているかということは純粋にどうでもよくて、血の写真を見たときにザラつく気持ち、それだけが重要。

GCD:怖い動画とか見ちゃうじゃないですか。ナイフでメッタ刺ししているのとか。意識してなかったけど、「極薄」でも同じ樹脂で固めていて(《TOROPHY》)。前回も死を扱っていたのですが、なんとなく「極薄」をやるときは、普段やる感じで作ろうとはならない。

── 《Red face》は額縁があって、モチーフも顔というこれまでにないものでしたよね。

山本:画像の薄さは好きなんですけど、一方で趣味的には古典というか、宗教画やモノ派も好きだし。物質的なものも、もちろん好きで。

AK:物質的なものは、三人とも好きだよね。

山本:どっちもある状態をつくりたいという思いがある。すごく薄っぺらいけど分厚くもあって、軽いけど重たいみたいな。それが自分が考えている今の環境や社会の状態でもあるから。例えば、古い写本のはずなんだけど、今っぽい軽さやカラフルさがあったり。違いすぎるからこそ生まれる共通点、その感じを作りたい。今回は、肖像画としては別に変なことはしてなくて。

GCD:肖像画にモデルはいるの?

山本:自分が選んだ画像から目とかそれぞれ部分を持ってきてる。落書きじゃないけど、そういう軽さも出しながら分厚くもある。どちらもあって、はじめて人の顔が浮き上がる。根っこもあるし、木もある、その両方を描きたい。

GCD:額装はどういう流れで生まれたの?

山本:今のペインターの人たちはそのまま出すことが多いから、古典絵画っぽく額装しながら軽さも出したかった。古臭い感じもありつつ、プラスチックと造花を使って重さと軽さのバランスを出すっていう。

[画像と物質]

── 物質性にたいしてはどう考えているんですか? それは画像を見る感覚とは別ですか?

GCD:物は好きで、それこそ服とか靴とかは好きですね。美術展を見に行くのも好きだし。画像のクオリティというと難しくなるけど、画像を見極めるときの細かな美学の判断基準と通じるものがあるのかな。

AK:ある気がする。

GCD:物質的なものにも、画像と同じように厳しい判断を下す、というか(笑)。

AK:自分の作品にかんしていえば、物への厳しさはないんだけど、他の人が作るものにはものすごく厳しい(笑)。自分の作品ってあともうちょっと頑張れば綺麗にできるのに、というクオリティで作っていて。本名ではなく、YoufireとかArtKingと名乗っているのは、ゲームで自分のキャラを動かす感じに近くて、しかも詐欺師っぽいキャラでいきたいと思ってる。で、そのキャラは、ゴミみたいなクオリティの量産品を傑作として見せる。だから、自分の作品の物質的なクオリティへの評価は甘くなってしまいますね。

── 作家名がユーザーネーム的なものだとすると、その主体のあり方は制作者というよりは、消費者とか転売屋の方に近いんですかね。

AK:偽のブランド品が好きで。本物じゃないけど、本物になろうとしてなれていない感じ。むしろ偽物の方が本物らしいんじゃないかというか。そこに、クオリティに逃げない美しさがある。

GCD:逆でしょ(笑)。

AK:いやでも、物の綺麗さってポルノっぽいし、ズルい。物自体が持っている美学が強いから、綺麗さまでいかなくていいという状況にはしたい。

[掃き溜め、化け物、サイコ]

── タイトルの「inframance」というデュシャンの言葉に戻ってみます。なんとなくそれは、《泉》によって、ある空間に便器が置かれることが作品であるというふうにして、物と空間を区別したことからいろいろ考えられるし、物と空間を区別する際(キワ)について話そうとしていたのではないかと思いました。すごく大雑把に聞きますが、インターネットと物、画像と物の際って何だと思いますか?

AK:ちゃんとした答えではないかもしれないけど、デュシャンは満を持して完璧な場を用意して発表していたと思う。《泉》はちゃんと作品として成立していると思うし、なんなら美しいし。自分は、そのさらにギリギリを攻めたい。どこまで行ったらこれが価値のないものってバレるのか、そういう気持ちでやっています。例えば、このパネルの作品は必要以上に厚みを持たせていて、この厚みによって作品っぽくなっているんですよね。この厚みを薄くすればするほどゴミに近づいていくというか。本当はもっといけるのかもしれないけど、今回は7cmでやってみて、これで騙せるかな、と。見てくれる人との駆け引きを考えながら制作はしてます。

GCD:ArtKingの世界に取り込むためのテコ入れをしないで、こういうことをやるのは違うというか、かなり微妙になる気がするから、場を用意するのは重要ではあるよね。

── コンセプトやステートメントがある場合、それが展覧会の見えないフレームになる場合もあって、一方で今回の展覧会は、画像と物というどちらも見えるものの強度から何かを考えようとしてますよね。

山本:この三人でやるといつもいい意味で掃き溜めっぽくなれるというか。精神的に同じ宝箱を共有していて、それを実体化したようなイメージ。CON_の綺麗ではないけど場所としてはしっかり存在している、コンクリ打ちっぱなしの無機質な感じも好きで。ここに変なものがたくさん置いてあって、フィジカルに足を運んでもらうこと自体に何か違和感があるし、逆転が起きている気がする。現実空間か精神世界かどっちだ?みたいな曖昧な環境にしたい。パッと見で自分が見てきた展覧会の光景とは違って、これは作品なのか?と疑うようなものが詰まっている。でもむしろこっちの方が正しくない?とも思う。

AK:「極薄見にきました!」と言っていた人は、本当は精神世界の出来事を報告していたのかもしれない。

山本:(笑)。そうだとしても階段を昇って、ライトに照らされた作品を見て、フィジカルの対話がある。そのギャップがいい。

── 空間は、人工物で溢れているという印象があります。人工物のなかでも、異質で不気味なものが並んでいる。

AK:前のインタビューでも床が木製だと嫌だという話をしたのですが、それは自然物が嫌というわけではなく、温もりみたいなものを感じてほしくないから。他のニ人はわからないけど、僕はVaperwave的な美しさを求めていて、それは作者と作品をいかに結びつけないかということから生まれたものだったと思う。だから作者の身体を感じる温もりじゃなくて、化け物が作ったような体調が悪くなる感じにしたい。

GCD:前回もそうですけど、「驚異の部屋」的なイカれコレクターの部屋もイメージとしてあった。無断転載するように、いろいろな場所から集めてきて並べる。画像収集も0円でできるコレクションではあるから。『American Psycho』の部屋とか、パキパキじゃないですか。イカれた人は、人工物を集めがちですよね。あとは今回、髑髏や豹の立体があるんですけど、これは三人で買いに行ったもので、これで極薄度は高まった気がする。

AK:立ち位置が謎の作品ではある(笑)。

山本:これはなんなんだ?っていう。